昭和47年5月27日 朝の御理解
中村良一
御神訓
一 神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。
信心は、いよいよ、神様を信じて疑わない生活が出来る生活を信心生活だと思う。ね。半信半疑では、おかげも半分。ね。疑うてかかれば、もう、全部が嘘。ね。いよいよ、信じて向かうならば、そのままがおかげ。そこで、何も無いところから、信じなさい、信じなさいと言うても、そら信じられるのではないのですけれども、ね。なるほどなるほどと、合点が行くような、言うなら、神様の働きをです、神様を信ずると言う事は、神様の働きを信ずるという事だと思うのですよね。神様の働きを信じる。
昨日は、久留米の初代、石橋松次郎先生の、三十年の式年祭を、一同で、拝ませて頂きました。本当に、御神徳というものは、あの世にも持っていけ、この世にも残ると仰る。それを、目の当たりに見せられた様なお祭りでございましたね。本当に、あのね、あぁいう大徳を受けられた先生方の、いわゆる、あの、霊祭なんかてもう、何を置いても、お参りさせていただきたいと思うね。いわゆる、神様の働きを、そこに見る事が出来るんです。ね。だから、なら、おかげが受けられんのは、まぁだ、自分が、神様を疑うとるからだと分かり、半信半疑だからと分かり、ね。いよいよ、神様を信じて疑わない心が、いよいよ、募る。神様の働きを、そこに見ることが出来る。ね。
どうですか、あの、墓前祭が始まるまでは、あんなにお湿りでしたけれども、いわば、墓前祭が、時間励行でありましたけれど。始まると言う頃から、ぱーっとお湿りが上がってしまうですからねぇ。もう、ほんとうに恐れ入ってしまうです。如何にその、天地の御神徳とは、天地のご信用じゃと、石橋先生が仰っておられたが。天地のご信用を受けておられた方かという事が分かりますよね。もう、色々ななかに、それを実感させていただきましたが。お祭りが済んで、ちょうど、二十八年の、大洪水で、久留米教会も水浸しになりました時に、先生の、ご遺品であるところの、この、オーバーが、オーバーですね。冬の外套です。もう、泥まみれになって、埋かって居ったのを、不知火教会の先生が、貰うて帰っておられた。そしてそれを、綺麗にクリーニングして、うちに、それこそ宝のようにしておられたけれども。これは、私一人のものではないと言うて、記念祭を境に、また、あの、久留米教会にお返しになっておられます。それを、お供えしてございましたのを、出して見せて頂きました。この外套を着て、久留米の初代は、木曾山中に、師匠、桂松平先生と同道して、甘木の初代、または、石橋先生、まぁ、有名な、本当に力を受けられた先生方ばかりが、木曾山中に入られて、御本部御造営の御用材切り出しの御用を受け賜わられた。ね。その時に、着用されたと言う外套なんです。
大分の八坂先生が、その説明をなさっておられたけれど、もう、感極まって、そのことを説明をなさっておられました。この外套の中に、石橋先生の御用精神がこもっているんだと言うてね、おられました。そして、私も、本当にそうだと思わせて頂いた時に、神様から、お知らせを頂いたのがね。その、御用をね、いわば、御用、御用と言うて、御用をするという事を、もう、これは、久留米関係だけじゃない、みんな、一生懸命説きますけれどもね。いわゆるその、外套の内容というのが、御用だってあるようにね。その内容というものがです。御用しなければおられないと言う心が、もっと、向こうにあるという事です。御用すりゃ助かる。心にもない事を、御用すりゃ助かる、御用すりゃ助かるで、なるほど、ちょっと、おかげ頂くようなところがありますもんね。どんどん、お供えどんしたり、一生懸命、御用でんさしてもらうと。けれどもね、それが、本当の助かりにはならんです。もう一つ、向こうにあるのは、御用をさせて貰わなければおられんと言う心なんです。ね。ですからもう、そこん所には、先生方の場合は、御用、御用と思うてござらんとです。もう、当たり前の事として、なされておるという御用だから、素晴らしいのです。ね。もう、御用でなして、御御用とでも申しましょうが。ね。私は、御用しよるといった様なものじゃないて。もう、そうしなければおられんのである。師匠が率先してなされる、その師匠についていかなければおられんのである。ほんなら、そういう、言うなら、偉大な信心が、どこから生まれて来たかというとです。ね。石橋先生の、あの、仰っておられるものの中に、「天地神明に不足を言わず」と言う修行をなさっておられますね。天地神明に不足を言わず。どの様な事が起こってきてもです。それには、不足は言わない、不平を言わないと。いわゆる、合楽で言われている、成り行きを大事にし、それを、御事柄として受けていくといった様な、ご精神が、根本になってるんです。ね。そこで、ほんなら、その事をです、頂かれることの為には、なるほど、信心辛抱が要りなさっただろうと思うのですね。久留米の信心の、いわゆる、肝心要てと言われるところの信心辛抱。起きてくる、その事柄をです。天地神明に不足は言わないと。けれども、やはり、不足も出る様な事も、苦しいことも、涙の出る様な事もあろうけれどもです。そこんところを、辛抱なさったことが、信心辛抱である。ね。その、根本のところをね。言わずして、説かずして、石橋先生のご信心が分かるはずは無いて。御用すりゃ、石橋先生の精神が分かるなんて事は、嘘だと。私は、そう思うです。ね。
言うなら、合楽でです、合楽で、一生懸命説かせていただいておる信心を、皆さんが、本当に行じられたらです。ね。必ず、皆さんが、もう、無条件に、御用をしなければおられない心の状態というものが育ってくるです。そうなる時に、いよいよ、おかげが受けられるわけです。ね。おかげを頂いて御覧なさい。実力も持たん者に、御用せろ、御用せろと言ったって、力が無い者を、どうしようも無いじゃないですか。ここに、百件なら百件のものがあるから、それをここまで持ってきてくれと言う御用を仰せ付かってもです。五十件しか、持ってない力の人だったら、動かす事だって出来ないでしょうが。ね。先ず、だから、力を受けることが、先だという事です。ね。それには、ほんなら、天地神明に不足を言わずと言った様な、厳しいです、それは。けど、そこんところを、泣く泣くでも、信心辛抱させて頂きながら、おかげを頂いていくところから、力が受けられる。神様のご信用を、いよいよ、頂けてくる。その、神様のご信用が、いわゆる、お徳を受けるからです、ね。それこそ、もう、限りない御用が出来られたわけです。
私は、昨日の、石橋先生の霊祭を拝ませて頂いて、私の信心に、また、一つの進歩をさせて頂いた様なおかげを頂いております。その事を、今朝から、おれいをもうさせて頂いておりましたら、あの、京都のね、あの、私は、見た事はないですけれども、大文字という、なんか有名な行事がありますよね。もう、それこそ、夜空を焼くような、あの、山の中腹にですかね。あの、大の字がこう、映るんですね。あの、火の大の字がつく大文字と。そこの情景を頂いてね。その大という字が、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる回っておるところを頂いた。皆さん、こう、大の字をこう、棒で書いたようにして書いてみなさい。それを、ぐるぐる廻したら、もう、どこからみても、大の字には見えるんです。大の字を、こうやってね。棒で書いたような大の字を書いてごらんなさい。どちらからみても、ね。こう、大坪の大という字に見えるのですよ。ね。
幸せとは、ね。上から読んでも、下から読んでも、幸せと読む、幸福の幸と言う字は。ね。だから、上であろうが、下であろうが、どんな場合であっても、ね。有難いと頂けれる心を作るのが、信心だと言うことです。現在、難儀の、いわば、峠と思われる様な中にあっても、それが有難い。力を受けて行きよる時だと思うたら有難い。また、そういう時に、出来る信心だからこそ、信心が出来るんです。ね。有名な、石橋先生のお話しの中にあるでしょう。小倉の桂先生が、それこそ、沢山な、きら星のような先生方ばかり並んでおられる中で、御大祭かなんかの後の御直会の時に、石橋先生に向かって仰った。「石橋さん、あんたんとこの息子は馬鹿じゃね」と仰った。もう、それこそ、満座の中でね。ようも、そげな事がと言う所でしょうけれども、「親先生、おかげで信心が出来ます」と仰ったんです。ね。もう、例えばです、そういうほんなら、頭の悪い子供がおる事をです。「おかげで信心が出来る」として、有難く受け取られるわけですよ。それを、実際に、受け取られるから、もう、とっさに出た訳なんです。「親先生、おかげで信心が出来ます」「石橋さん、でかした」と言うて、一番にお盃をさされたという事です。桂先生は、それを聞きたいばっかりなんです。ね。
だから、私共が、どういう中にあっても、いわば、多々かれれば痛いです。けれども、これによって、力を頂いておると、お礼を申し上げるような心の出来る時に、神様が、でかしたと仰って、有難い、勿体無きを下さらん筈が無いです。ね。石橋先生の信心は、そこなんです。ただ、石橋先生が、御用、御用と、こう言われるけれども。その御用のせにゃおられない、根本の所に、素晴らしい信心があった訳なんです。ね。ほんなら、昨日の、あの御霊祭を拝ませて頂いてです。なるほど、ほんなら、ここの方達ですよ。うちの親先生が、本当にお徳ちゃ、あの世にも、持っていけ、この世にも、残しておけると仰るが。もう、お徳というものは、どうにもする事が出来ないもんだなぁ。素晴らしい事だなぁと、実感されただろうと、こう思うです。
昨日の朝の御理解を、そのままでした、ね。神に祀られるという事を、楽しみに信心せよと仰る。なるほど、神になっておられる印がです。あの、御霊祭に現れておるじゃないか。ね。沢山の人から拝まれる。ね。親先生のおかげで、初代のおかげでと、随喜の涙を流して、あのお祭りを、私共は拝ませて貰いました。
今日、御祈念の半ばにですね。ちょうどあの、宴会の時に、よく歌います歌にね。何とかと言うね。松ノ木小唄か何かと言うのがありましょうが。えー、松ノ木ばかりが松じゃない。あなた待つのも松の内と言うね。こら、リズムが、私の信心に響いてくるんですよ。そして、ここんとこの、松ノ木ばかりが松じゃない、ね。あなた待つのも松の内。ここんところを、繰り返し繰り返し頂いておるうちにです。先日頂きましたね。私も、どうでも大きなおかげを頂きたい、ね。それには、言うなら、松の信心をする以外にはないと。心が公と書いてある。九州の三松と言われるほどしの、大徳を受けられた先生方の信心を、神習わせて頂く以外にはないのだと。と、言うてて、心が、大きゅうなる事のために、心が大きゅうなら、おかげが絶対、大きゅうなるのだから。受け皿が大きゅうなるのだから、ね。ところが、ほんなら、今日の御理解頂くと、それだけじゃなかと言うこと。あなた待つのも松の内だとこう仰る。時に、私は、気付かせていただいたのがね。神様が、それぞれの人間氏子に期待してござる。待ってござる。ほんなら、ね。誰にだって、神様の期待があるのですよ。自分の願いだけを、申し述べとるけれども、神様は、神様でです、ね。また、その氏子に対する期待をかけておられるのです。ね。
その期待にお応え申した時にです。あなた待つのも松の内だという事になるのです。と、私は、気付かせて頂いた。神様が待ってござる、ね。それを、またの言葉で言うならば、改まりという事だろうと思う。おかげをやろうと思うとるけれどもね。お前の、心のなかの状態では、おかげはやられん。もう、ただ、神様は、それを待ってござる。あれが悪いの、これがどうの。自分のこつは、一つも思いよらん、棚に上げとる、自分の事は。そうして、ただ、我が言うことだけは言うと、それでは、神様がね。神様の待ってござる。はぁ、神様が、こういう心の状態じゃ、おかげを下されるはずが無いと言うものを悟らせて貰って、そこに詫びる。そこに気づかせていただいたことに、お礼が言えると言う改まりこそ、神様が待ってござる。あなた待つのも松の内だ、ね。大きな信心を目指させていただくと同時にです。その大きな信心になっていく事のための、邪魔になっておるものが、心のなかにあると。ね。それを、改まりと言う。
今日、またの御神願にね。ある方が、子供をおんぶしておる。それで、まぁ、寒いもんだから、あの、何ち言うですかねぇ。あの、ねんねこです。ねんねこ着てるわけです。丹前のような奴。ところがその、負うとる赤ちゃんが、ぶら下がっとる。居つけ帯をしとらんとじゃん。ね。居つけ帯せんなり、丹前のごたるとば着てから、おんぶしておる。そして、口にはタバコをくわえておる。キセルの、こう長いタバコをくわえておる。そるきん、子供は、やはり、両歩の手で、尻をこうやって持たなければ、だから、いけん訳。居つけとらんもんじゃけ。ね。それで、こうやって負うとる、口にはタバコをすぱすぱ吸いよる。だからまぁ、片一方の手で、こうやって、吸えるとは吸えるだろうけれども、ほかのものが握られん、これじゃ。ね。そして、おかげをくれ、おかげをくれと言いよる訳なんです。やろうち言って、ここに、目の前に出してもらたっちゃ、それを掴むことが出来んのだ。私は、この、赤ん坊と言うか、昔頂いた、運命の赤ん坊と仰るですね。お互いが持っておる、それぞれのめぐりというか、難儀というものは、自分が、これを、持って生まれるとに背負うて来とるとじゃもん。ね。それをです、要らんもののように思う事は、思うてもです。それは、剥ぐと言う事は出来ないのです。だから、ある意味で、めぐりと仲ようせろという事は、それであって。だから、ほんならね、信心の帯をしっかりせよと仰る事は、その難儀と、一つになるという事なんだ。居つけ帯で、しっかりと居つけといて、そして、寒いなら、その、ねんねこでも良い、着せてもらうことは良かろうけれどもです。もう、こう言う修行の真っ最中に、一服どもする段かという事。そげんしながら、楽はしたいち言うものがある訳なんです。ね。一休みしようごたる感じがあるわけです。そういう、こらもう、私どんが、もう、おかげ頂かんなん時なんかは、もう、そげなこつはもう、全然、さらさら、無かったです。いよいよ、どうでも、おかげ受けなければならん。いうならば、もう、修行の連続です。一服する暇なんか無かったです。また、それが楽しかったです。一生懸命で。いわゆる、運命の赤ん坊と言うのは、もう、それこそ、ギスとせんごと、居つけとる、身体に。ね。そして、一服もせんもんじゃから、両歩の手で、一生懸命のことが出来たわけです。ね。人の荷物でも何でも、持ってやることが出来た訳です。と言う様な、私は、おかげを頂くと言う事がですね。もう、いよいよ、自分のめぐりを感じ、自分の難儀を、本当に、難儀と感じさせていただくならばです。そうする事がです。何時の間にか、このめぐりが育っていく訳です、ね。赤ん坊が、段々、育っていってです。まぁ、ほんなら、これが二十歳にもなると、もう今度は、親を見るようになります。いわゆる、めぐり様のおかげでと。あのめぐりのおかげで、あんな修行が出来たという事になるのです。あの難儀のおかげで、信心に、一生懸命の物が出来た。もう、育ってきたわけなんです。もう子供が、私共の場合は、ね。 そのめぐりが、私共一家を育ててくれたじゃなくて、そのめぐりがです。ここに沢山、お引き寄せ頂いておる方達までも、賄う様になっておるという事になるのです。今日は、そんなお知らせを頂きました。ね。だから、その、幸せと言う字が、上から見ても、下から見てもと言うけども、それが、もう一つ、こう、ね。大きな信心と言うものはです。ぐるぐる、あれほどの信心が出来るのに、あれだけの、例えば、真っ黒い、その夜空に、大文字が映るようにね。もう、はっきり、どっから見ても分かるでしょう。苦労しておる姿と言うものは。いやぁ、あそこは、日参り、夜参りしござるばってん、難儀はと言うのは、ちょうど、夜空に見える大の字のようなもんです。
だから、神様の願いと言うものが、そげな風にして、現れておるわけです。ね。はじめの間は、信心しよったっちゃち言うかも知れません。けれども、これが、本当のおかげになった時、例えば、十人のものよりも、千人の、万人のものが、これを見ることがいいです。自分の難儀を見とって下さい。そして、私のおかげを受けていく姿を、いよいよ、また、見てもらわなければならん。そん為には、その大の字を、ぐるぐる廻して、どっから眺めても大の字。どっから眺めても、金光様の御信者じゃなという様な生き方にならなければいけないという事。どっから見ても。はぁ、教会だけじゃ素晴らしかばってん、うち帰ったら、もう違う。もうこれが、利害関係になったら、もう、信心の無いものと同じになってしまっておる。これではね、本当のおかげは受けられませんよね。ね。
ここで私は、ほんなら、久留米の、例えば、昨日の霊祭を拝ませていただいてです。本当に、神様を疑う余地はないほどしにです。お徳というものが、あの様に、素晴らしいものだという事を実感されたであろうように、ここでは、日々です。なるほど、あれは、大坪総一郎という人が話しておるとじゃないなぁと、ね。大坪総一郎を通して、神様が、言うなら、乗り移って、あの話をして下さっておるのだなと、分からせて頂けれる事実があるです、ここでは。今、私が申しました、とても、こういう事が、私の頭から出て来る筈が無いじゃないですか。言うなら、これが、そのまま、神の声なんです、ね。それで、その神の、直接の御教えを頂いてです。それを行じて、おかげを受けられるならば、まぁだ、どこにかです、神様の期待に添えていない事を悟らせていただいて、ね。おかげを受けていかなければならない。
なるほど、神様には声も無い。形も見えない。けれどもです、神様の働きを、そこに見たり聞いたり、感じ取ることが出来るのです。合楽に参ってくるならば。(?)霊祭を拝んでおるならば。ね。合楽の場合は、それを、日々です。ここで、そういう神様の働きを感じずにはおられないほどしの働きを現してあるわけです。ね。ですから、ね。皆さんがね。昨日も申しましたように、文雄先生が、一番初めから、ね。どうでも、願ったが以上は、聞いて貰わにゃならんと、神様に。ね。でなかったら、私が神様を、疑わねばならんことになる。どうでも、願ったことを、おかげを受けなければならんから、ほんなら、神様の願いもです。本気で聞かせていただこうと言う気でおりましたという様な事を、ね。二十五日の研修会の時に申しております。神様の言う事は聞こうとせず、自分の、お腹のなかの事は、考えようとせず、ただ、あれが悪いような、このためのような考え方で、おかげの頂ける筈が無いです。ね。神様の言われる事をです、ね。神様が期待してござる事をです。神様が、こうやって願うておられる事をです。氏子信心して、どうぞ、おかげを受けてくれよと。そのためには、今日の御理解の所を、しっかり、身に付けてくれよと、例えば、言うてござるのです、これは。ね。ですから、そこんところを、守らずして、行じずして、おかげの受けられる筈は無い。そこんところを守っときゃ、初めておかげが、言うならば、神様の働きじゃなと思われる体験が出来てくるところから、いよいよ、神様を信じて疑わない。それは、ただ、見たり、聞いたりしただけではなくて、自分自身が頂いて、神様を確かめていくと言う生き方こそ、あの人は、金光様のご信心だと思われるですよね。ぽつんぽつん頂いた、おかげのようなこっじゃ、あん時は、腑の良かったつじゃろうぐらいになってしまうです、人間というものは、必ず。ね。だからもう、日々、刻々です。ね。神様を、これに実感させて頂けれる信心させてもらうという事。ね。
それには、自分が、年貢ひっからいながら、本当に、居つけ帯で、本当に居付けておるように、もうその、難儀とです、もう、難儀を外そうじゃなくて、難儀と一つになっておる様なね。この難儀から、逃れよう逃れようといったような、ね。もう、早う下ろそうごとして応えんというごたるこっじゃ出けん。もう、神様が、下さる難儀なら、本気でこれに、身体に居つけてから、そして、それを育てることの楽しみをせにゃ、頂かにゃいかん。ね。だから、そういう、ほんなら、難儀を感ずる時には、楽どもしようとか、一服どもしようち言うごたる。口にはキセルくわえといてから、こうして、赤ちゃんな、両方の手で、こうやって、支えとかんならんち言う。そげな、だらしのない格好で、どうぞどうぞ、神様神様ち言うとったって、神様は、何時までも、信じることの出来るようなおかげは受けられない。ね。だから、本気ではまらにゃいかんという事です。しっかり、信心の帯をせよと仰るのは、そのこと。ね。そのこと。
それから、松ノ木尽くしじゃないですけれどもね、いわゆる、ね。松平先生であろうが、松太郎先生であろうが、松次郎先生であろうが。なるほど、偉大な信心である。その、偉大な信心のです。ただ、形の所だけを真似するのではなくて、その根本の所を、一つ、頂かなければいけない。ね。石橋先生は、なるほど、御用第一として、御用に、言うならば、命を掛けられた。掛けずにおられないほどしのもの。それは、その向こうに、信心辛抱があり、またその、ひとつ向こうのほうには、ね。天地神明に不足を言わずといった様な、素晴らしい信心が出来てこそ、あの御用がお出来になられたという事になる。ね。
皆さんが、今、苦労をしておる。大きなおかげを頂きたい。もう、神様から、どんなにぐるぐる、目の回るように廻されてもです。どっから見てもです、大の字に見えるような、なるほど、金光様のご信者じゃなと、ね。自他共に言い、思われるほどしの信心を、身に付けていくところからです。ね。疑おうと思うても、疑う余地がないほどしのおかげがいただけると思うです。ね。そのためには、一つ、本気でね、一つ、自分と言うものを、ね。神様が待ってござるもの、神様が期待してござるものを改めていくという信心。
それも、ただ、便々とした、ね。だらったした信心からでは、なかなか、改まることは出来ません。本気にならせていただくところからです、ね。あぁ、神様が待ってござったな。これを自分が改めることになるだろうというのに気付かせていただいて。そして、願っていくという信心。そこからもう、疑おうにも疑う余地のないほどしのおかげをです。いうならば、天地の、いわゆる働きに、神様の働きをです、ね。そこに、実感しなければ おられないほどしのおかげ。だからこそ、有難い。勿体ないの生活が出来るわけです。ね。そうしていくうちに、ほんなら、めぐりの赤ん坊も、運命の赤ん坊も大きゅうなって、もう、じーっと、しとったっちゃ、もう、めぐりが育っていくね。本当のめぐりが大きくなっていくじゃないですよ。ね。それを、本当に、もう、外そうじゃなくて、それこそ、めぐり様めぐり様のおかげで、こんな信心が出来ると言うような頂き方こそです。ぴったりと、自分の身体に、居つけたような信心だろう。そうしていくうちには、この背中の子供も大きゅうなる。ね。親の言うことを、色々、手伝いぐらいしてくれるようになる。いや、後には、親を見てくれるようになる。ね。そこから、いわゆる、なるほど、難はみかげであるなという事も分かってくる。ね。疑えば限りがない。これは、神様の実際のお姿である。けれども、その神様の働きをです。信心によって、私共が、見、聞きさせて頂くところから、ね。いよいよ、神様を信じて疑わない。いわゆる、そっくりそのままが、おかげになるほどしのおかげを頂きたい。どうぞ。